静かにしていること・・沈黙していること・・
思考の働きを頼りとし、”人生の殆どすべては、この「考えること」によって成り立っている”・・というように思いこんでいる私たちは、この「静かに在る」ということが大変困難になっているようです。
それは、四六時中「何かをしないと落ち着かない」「何かをしないではいられない」という、まさに病的とも言えるような状態であると言っても過言ではないでしょう。
普段、仕事や雑事に追われ、頭を使い、忙しく時を過ごす毎日ですが、何もする必要のない暇な時間ができたとき、私たちは、そのままゆったりと何もしないでくつろぐ・・という風にすることは、殆ど不可能なことのようです。
何もする必要のない時、すぐに私たちは落ち着かなくなり、「何かすること」を見つけ出そうとします。新聞を読んだり、特に見たくもないのにテレビのスイッチを入れたり、掃除する場所を見つけたり、友達や知り合いに電話をしたり等々・・、あれやこれやと、この「何かをしないと居られない」という落ち着きのない状態を静めてくれるものを見つけ出し、それをやり始めることになります。
この状況をよくよく見てみると、この”見つけ出したこと”を、本当にやりたいからやるのではなく、「何かをしないと落ち着かない」ので”やる”という、言ってみれば、無意識下の要求に操られる、糸のついた人形のように時を過ごしていると言ってもいいでしょう。あまりにも無意識なので、あたかも自分が、このことをやりたい、若しくは、やらねばならないのだと思いこみ、何の疑問も持たずに、この「落ち着きのなさ」の作り出す「やるべきこと」に勤しんでいるようでもあります。
まあ、しかし、このことが、日常生活に弊害があるようには見えないばかりでなく、返って、自分は活動的であるとか、働き者であるという風に、むしろ善いことのように思える人もいるかも知れません。
しかし、この落ち着きのない、無意識な状態で生活をするということは、「本当にくつろいで休む」という事が出来ないということであり、肉体や精神を疲労させ、膨大なエネルギーを損失し、終いには病気にもなりかねない、という危険性や、エネルギーを浪費させるあまり、自分の本当にやりたいことを見つけ出し、実際にそれをやるという、私たちに本当に必要な力もなくなってしまう・・ということもあり得るわけです。
「静かに在る」という状態・・これは、命の源泉にくつろぐということです。
私たちは、仏教で言う所の「無」からやってきました。この私たちの本当の故郷である「無」に帰り、命の源泉に湧き出ている限りない生命のエネルギーを供給され、癒され、活力を得、理由のない喜びに満たされる事のできる術が、実はこの「静かに在る」ということに隠されているのです。
静かに在る・・心も感情も何も動かず、ただひたすら本当に、静かに在る時、「我」というものは消え去って、「ただ存在している」ということになります。
そこには、自分も他人もなく、あの世もこの世もなく、世界と私という分別もない、まさに宇宙の不二(ふたつとない)の生命そのものだけが存在しているという・・まさにその事実のみが、そこに在ります。
肉体を去り、消えてしまったと思われたあの人達も肉体を持って今なおこの地上に生きているとされている私たちも・・、それらすべては、その「静かに在る」という静寂なる空間の中で、今まさに消え失せ、何の境界線もなく只々、一つの大いなる命として此処に在る。
この脈々とリズムを打ちながら存在し成長する宇宙と、一度たりとも分かたれたことのない、私たち・・この事実を体験するとき、私たち人は、限りのない安心感に包まれ、癒され、この自分はまさに仏そのものであり、永遠の存在であった・・と、大いなる大いなる、無上の喜びを得ることになります。
南無阿弥陀仏と称えるとき、「私にすべてを任せよ」という、あみださんの声が届いている・・と言われています。
しかし、実は、既にあみださんの声は、私たちが念仏を唱えようが唱えまいが、今此処に届いており、「おまえは私と離れたことはない(ひとつである)」と真実の声が囁いています。
「念仏を称える」ということは、そういった、あみださんは私たちそのものであり、一度たりとも失われたことのない「救い」のまっただ中にいる・・、「本当の自分(仏性)」は、罪があろうがなかろうが、怒っていようと喜んでいようと、泣いていようと笑っていようと、慈悲深かろうが冷血であろうが、一切お構いなしに、仏そのものとして、今此処に存在する・・というその真実を、最初は半信半疑でも、「意識する」・・という方便(理解に至るための方法)だということに他ならないのです。
そうです・・「静かに在る」・・まさにこの静寂の中で、一つなる命、あみださんと共にいつもいる・・ただの一度でも、あみださんそのものでなかったことはなかった・・嗚呼、ただいまこの時、仏そのものであるのだ・・ということが本当に理解できることでしょう。そしてその瞬間、限りない感謝の思いと共に、「なむあみだぶつ」という真の念仏が、湧き出てくるかも知れません。また、あるいは、大いに笑うか、あまりの歓喜に涙するか・・様々な表現がそこにあることでしょう。
肉体を離れ、何処かへ行ってしまったと思っていた、最愛の人たちを思い起こす時もあるでしょう。
そう、本当は、あの人達とも一度たりとも、分かたれたことはなかった・・。
この静寂の空間の中に、私たちは、「一つの命」として存在しているのです。
時には本当に体や心を休めて、この「静寂」を楽しんではいかがでしょうか・・?
しかしながら、いざ、それを楽しんでみようと思っても、なかなか難しく感じることもあるようです。
静かに在る・・「よし、そうか」と思って、目を閉じて座ったり寝ころんでみると・・、最初は、その決意もむなしく、あっという間にソワソワとし始め、ありとあらゆる言葉や感情が内側に浮かんできます。「あっ、あれやらなくちゃ」「なんでこんな事始めたんだ」「今日は何食べようか」「あれ、あの人の名前なんだっけ」「静かにすれば、なんかいいことあるのかな?」等々・・・・!忙しくしているときには、殆ど気づくこともなかった雑念の数々・・が洪水のように湧き出ていることを見ることでしょう・・。そこで多くの人たちは、「やっぱり自分にはムリなこと・・」とあきらめてしまうことも多々あるようです。
しかしこの時、初めて私たちは、年がら年中内側でしゃべり続け、一時も休まることなく動いている思考(心、マインド)に出くわす(気づく)ということになるわけです・・。
それならば如何にして「静かに在る」ことができるのでしょう・・?
補足したいこともありますが、ここでは基本的なことだけを記します。
多くのありとあらゆる雑念がそこにあるという事実に直面するとき・・、これらの雑念を押さえようとするのではなく、むしろ、あるがままに、そこにあらしめて、「善い悪い」「好き嫌い」という判断を持ち込まず、雑念のあることを非難せず、がっかりもせずに、ただひたすらそれらを観る(これを観照といいます)・・ということを、少し忍耐強く、深刻にならずリラックスして、修行というような大仰なものではなく、むしろそれを遊びとして続ける・・というのがコツです。
ムリせず楽しみながら、これを続けていくと、段々と、雑念の交通量が減っていき、思考と思考の”間”が見えてきます。そして、その”間”が段々と長くなり、ある日突然に、あれほどまでに煩かった内側の騒音が静まっているのに気づくことでしょう・・。
・・そして・・この先は、これ以上表現のしようがない、体験して味わうことによってのみ、理解し得るという世界です。
・・なむあみだぶつ・・