観照を楽しんでいると色んなことが起こります・・こんなことも間々あるようで・・
身に覚えのある人もいるかも・・ははは
観照(瞑想)というものを続けていると、「観る側」である本当の自分と「観られる側」であるマインドや身体、感情などとの「距離」を感じ始め、「観られる側」のものは自分ではないという確認ともいうべき体験が起こるというのは「吾が師和尚と瞑想の話」や「珍説悪人正機」にも書いたとおりです。
そして「観られる側」のもの(対象)を何の判断もなく(善い悪いとか好き嫌いとか等々)只々観ていると時にはそれらの全てが消えて、和尚の言う「観る者が観られる者になる」ということが起こり、正に「空」そのものである本当の自分を体験します。
これは本当に美しい体験ですが、同時にこの美しい体験が「記憶」となりマインドの一部にもなって、この得も言われぬ体験をもう一度体験したいという「欲望」が起こって、それを求めるあまりに再びそれを味わうことが困難になったりもします。
また、「私はそれを知ったんだ」というマインドが瞑想者の態度を固定させて、「わたしは知ったのだから怒りや欲望も起こらないはずだ、私は慈悲深いのだ」っていうような「決めつけ」がその人を支配し始めたりもします・・。
しかし、現実の「生」はそんな瞑想者の考えなんぞには目もくれず(笑)、どんどん勝手に起こり続けていくわけでありまして、いつしかその人は「あれ、こんなハズじゃなかったのに・・」と愕然とするということも間々あるようです・・。
地獄は消えたはずなのに・・って思ったりもして・・ケッコウ大変なんです・・っはは・・!
この「消えたはずなのに」という思いこみがハゲしい分、最初の時よりもさらに大変に感じたり・・「動揺」があるんで、こんどは「何の判断もしないで観照」なんていうことは忘れて、この地獄をなんとか瞑想の力で消してやろう(っははは!)と頑張り始めたりするということも・・ジツはあったりします。
ここまでくると所謂、アリ地獄みたいなもんですね・・わはは!
「地獄」に住み始めたからって観ている方の「本性」は何も変わらず、ただただ其処に在るという「事実」は変わらないんですが・・その「本性」のスペースに”いる”ことができなくなっちゃって、「せっかくいい体験ができたのに何処に行っちゃったんだ」とか「(本性が)わかったはずだったのに、なんだろうこのテイタラクは」等々・・そう言うマインドの囁きに乗っ取られて深刻に悩んじゃうヒトたちも・・ケッコウよくあるでんすねこのパターンが・・・。
いやいや、マインド(心、思考、エゴ)っていうのはえらくシツコイんですよ・・ようやく話をつけてお引き取り願おうと玄関先まで送って、「さよなら」って言って家の中に戻ってくると、マインドさんは茶の間でくつろいで(?笑)メシかなんか食って・・。こちらも気がつかないで一緒にメシ食って、「これうまいね(笑)」なんて話しかけたりしているんですよ、これが・・はは・・それでそのうち気がついて「あれ、さっきさよならしたのにまだいたの?!」ってビックリしたりして・・ほんと油断も隙もないというのはこのことなんですよ・・あははははは!
まあでもこれが所謂「自我(エゴ)」の習性というやつなんでカンベンしてやって下さい(笑)。
彼らマインドさん達は彼らなりの人生(?)があるわけで、彼らの自由というものも尊重してやんないとカワイソウであります。
だって、瞑想を始めてしばらく経つと、やれ「マインドが邪魔をして」とか「いくら瞑想してもマインドが消えない・・」なんて、えらく邪魔者扱いされているわけで・・。
この世で生きていくのには絶対不可欠である彼ら・・他人とコミュニケーションをとったり、お金の計算をしたり大変便利に役立ってくれているこのマインドさん達・・そんなに邪険にするもんじゃありません・・はは!
「体験をした」という事実が記憶になって行く・・マインドさん達の仲間入りをするんです。その瞬間にはマインドはいなかった・・。
でもその体験のあと間髪を入れずに彼らはやってきて、「あれが良かったからこういう体験をした」とか理由付けをしたり、「この体験のもっとすごいヤツがきて絶対のサトリに至るんだ」とか「この美しい体験を忘れないようにしよう」とかなんとか、ありとあらゆる、所謂「有ること無いこと」というやつをしゃべり出す・・う~む・・。
今この時点で(記憶の中で)「体験」と呼んでいるものはマインドさんなんでありますね・・。体験をした瞬間、その美しいものはそこにあった・・でもその後すぐにそれはマインドに取り込まれ、「記憶」になった・・そして、それについて善い悪いと感想を述べたり、説明付けをし始めたというわけです。
まいんどさん・・ほんとうにごくろ~さんですが、事この「本性」やら「仏性」の一瞥はあなたがたがその瞬間に居なかったからこそ起こりえたという事実を理解して欲しいものです・・また、この種類のことを理解するということはマインドさん達にはムリであって、手を出さない方が無難だということを是非ご理解いただきたいものと存じます・・そうです、「気づき」、「理解」は彼らマインドさん達を超えてまさにこの瞬間、「此処」にあるのですから・・。
私たちの本性・・、それは常に「今此処」にあり続けている普遍のもの・・
青空のようにただそこにある・・
思考の雲に覆われようと覆われまいと・・
感情の雲が漂っていようといまいと一切お構いなし・・
ただただ・・在りつづけている・・
生まれもせず、死にもせず・・増えもせず、減りもせず・・
久遠・・永遠・・不二の実在・・
不思議といえば不思議・・普通といえば普通・・ですね・・
まいんどさんごくろうさん 2
自己がいる時、光明はなく、自己がいないとき、光明はある・・と、師の和尚は言っているわけですが、マインドさん(こころ)が自分だと錯覚している私たちにとって、ここいらへんのところが、非常に厄介なもののようで・・。
瞑想を通じて、理解が起こる瞬間は、確かにあって、その時、その理解は本物なんだけど、その体験の直後(?)というか、超ハイスピードのマインド攻撃(?笑)は、目にもとまらぬほどの勢いで、この「理解の体験」を「記憶」というマインドさんのメモリに取り込んでしまい、「私は理解した」「もう崩れることのない、揺るぎない境地に達した」とかなんとか書かれているファイルを作り、「悟り」とか「光明」とか「覚醒」とかいう名前を付けて、ハードディスクに保存するというわけです。
それで、その名前を付けて保存した記憶というファイルには、「やっぱ毎日瞑想したから、こんな事が起こった」とか「信心深くやってたからな~」とか「肉を食べるのやめたから良かった」とか「毎朝5時に起きたから理解に到達できた」などという、理由付けや、「よ~やくたどり着いたよ~、もう大丈夫、絶対安心、保証付き!」とか、「さあ、この光明を世の人々に広めなくっちゃな~、なんつったって、こんなすんごいことを体験して、サトっちまったんだからな~」はたまた、「そ~だ、オレは、りっぱなメイソウの師として生きていかなあかん・・!」なんぞというタワゴトが、行間も空けずに、所狭しと、ハミ出すくらいに書いてあったりして・・。
それで、この「タワゴトファイル」は、年がら年中バックグラウンドであたかもセキュリティソフトのように活動していて、かわいそ~なアタシら(笑!)はそのプログラミングされるままに、まるで操り人形みたいになっちゃって・・・・・・・・・・・。
・・う~む・・そういえばそ~でした・・あの理解の瞬間、マインドさんはいなかった・・まさに、無心だった(自己がいなかった)から「瞑想」「光明」もやってきた・・そ~だったのに、そんなことに気づかないワタシらは、この”名前を付けて保存”されたファイルの「タワゴト」を糧に(っははは~!)生きはじめるというアンバイなわけです。
ジツに、マインドさんは、すーぱーハイテクな仕事を、うるとらパワー、とれめんだすスピードでこなす・・というニクいやつ・・、こんなやつが会社に一人いれば、放っておいても業績急上昇!世界に広がるマインドチェ~ン!・・ってなもんです。
このすごい絶妙なマインドさんの仕事に気づいていたら何も問題はないんですが、その「気付き」がないもんだから、またすっかり、マインドさんに同化して、「解ったはずなのにど~しちまったんだ」とか、「なかなか、美しい瞑想の状態が続かないんだけど、ど~したらい~んだろ~・・?」「あの喜びをも~いちど~!」なんぞと、再び”振り出しに戻る”状態になるという寸法・・、ここに目出度く、マインドさんの仕事はカンペキに、ふぃにっしゅ~!・・・・・・・。
気づいては戻り、気づいては戻り・・この繰り返しで、瞑想好きのわたしらは生きているっていうわけでありますね~・・。
ま、問題ない、問題ない・・!っははは~!
合掌