それはあみださんの詩であった・・
「存在の詩」(原題 The Supreme Understanding)・・和尚が1970年代にインドのプーナ(プネー)で弟子に語った講話の一つです。
チベットタントラ仏教の不滅の聖典「マハムドラーの詩(うた)」を題材に自由無碍に語られた、とてつもなく美しい講話です。師が語るとき、それは正に「存在」そのものがうたっています。
小生がこの本と出会ってから何十年もの月日が流れましたが、読むたびにその美しさ、その「輝き」は常に新しく、私の全存在を揺り動かしてくれます。
この本は、日本で出版された和尚の本の中でも最もポピュラーなもので、多くの人たちがこの本を手にしています。
このとてつもなく美しい「存在の詩」・・小生にとっては「あみださんの詩」でもあったと言いたかったんです・・
「他力宗」はジツに「タントラ」に似ている・・呵々
ありがたい・・ありがたい・・
「自分自身を思いだした瞬間、すべてのカルマ(業)は消えていく・・
何故ならそれらは実在しないものだから」・・和尚は「存在の詩」の中でこの様に語ってくれています。
この言葉を味わっていると、小生の好きな親鸞さんのうた(和讃)・・彼のうたった詩を思い出しました・・
「清浄光明ならびなし遇斯光のゆへなれば一切の業繋ものぞこりぬ畢竟依を帰命せよ」
「この清らかな光は他に比べられるものがないほど優れている。この光に会えば、一切のカルマも消えてしまう。この事実を受け入れて従いなさい」というような意味になります。
こうして今、この和讃を味わってみると正に和尚の語ってくれた内容そのものという感じがします・・
今になってみればすごくシンプルで、わかりやすく感じられるこの詩(和讃)ですが、ハズカシながら小生は理解できないでいたんです・・。
どう考えても(笑・・考えてもわかるわけない!はは)・・リクツに合わない!(そりゃそうだ!)・・ははは。
疑い深い小生は当時、何千年何万年という長い間積み上げてきたカルマ(罪業)がどうして、「この瞬間」に消える事なんてあるんかい・・?そんなの私ら凡人に対する「慰め」みたいなもんで親鸞さんが「大丈夫、大丈夫、元気出して前向いて進みなさい、諦めちゃなんも始まらんからの~、何回か生まれ変わればそのうち成仏できるからの」とかいって励ましてくれてる方便みたいなものなんではないか・・ってね・・っはは!
いくらあみださんが「救わずにはおれない」って言ってるんだから信じなさい・・なんぞと言われてもね・・はは・・「ずいぶんカンタンでいいやね」・・なんて思っていたわけでした。
自分自身・・本性・・仏性という光・・親鸞さんは、この”ひかり”のことを「あみださんの光」と言っています。
吾々の内なる「久遠の命」は此処にある大いなる命、言い換えればこの宇宙のただ一つの実在・・大いなる全体・・
個人というものを完全に超えて存在する「ふたつではないもの」・・まさに「あみださん」そのもの・・
拙僧はこの様に体験し、理解しました・・ありがたい、ありがたい。
浄土教の聖典である「仏説無量寿経」によると、「阿弥陀仏は生きとし生けるもの全てを救う(仏にする)という誓いを立て、それを成就し”仏”になった。」とあります。
そう、まさに「誓い」は成就されている・・此処にいる「私」は「既にあみださんによって救われている(仏である)私」・・・なのです・・!
和尚に会って、瞑想の体験を通して「理解」が起こるまでは、この事が解らなかったんです。
このあみださんの話も、何かおとぎ話を聞くような気持ちで、実感の伴わない、悪く言えば子供だましのような気がしていたのを思い出します。
ムズカシイ哲学や「本願の説明」はどうであれ、この自分は「既にそれそのものである」という味わい、体験は久遠であり、真実であり、まさに歓喜です。
ありがたい・・ありがたい・・
ただただ涙が流れます ただただ涙がこぼれます・・求めては失い、求めては失いしていた「それ」は、なんの覆いもなく、あからさまに「此処」にあったわけです。
「ある日のひとりごと」にも書いたように、此処にいる「私」は「すでに光明を得ている私」であったわけでした・・
なんとま~ありがたい・・わかってみればあたりまえ・・んでもやっぱりありがたい・・
なんまんだぶ・・あ゛~
尚、この「存在の詩」または和尚についての情報は和尚のオフィシャルサイトをご覧下さい。