なんでまたイキナリ他力本願か?というと拙僧の住んでいる長徳寺は浄土真宗の寺でありまして、ワタクシも少なからずこの「他力本願」という言葉を聞きながら、育ってきたわけです。
これは非常に微妙な言葉でして、取り違いや誤解のされやすい言葉であります。
まず基本的なことは、これはカンタンに言うと「宗教的なサトリ(成仏すること)」を他力(阿弥陀仏)のチカラによって叶えるという意味でありましてべつにヒトのふんどしで相撲を取ったりとか、ただホトケさん拝んでゴリヤクもらうとかいった意味じゃないっちゅうことです。
新聞なんかにもよく「・・・そんな他力本願では心許ない」とか「他力本願的な体質を改善しないとこのような事件は後を絶たない」なんぞと言われっぱなしで、可哀想なぐらいの待遇(?)をうけてますよね。
まあ、その理論付けされている詳しい意味はありとあらゆる本が出版されていますし、そちらの方を読んだ方がいいでしょう。



しか〜し!!! ここで拙僧が述べたいのはそういう知識とか哲学っちゅうもんではなくて拙僧が体験して感じたところの「他力」というものをちょいとばかり書いてみたいのであります。

子供の頃から慣れ親しんできたこの「他力本願」という言葉ですが、一応ワタクシも僧侶のハシクレですのでそのことについて本を読んだり、えらい先生の講義を受けたりしたもんですが、拙僧のアタマがワルイのかハダに合わないのか判りませんが、なんだかおとぎ話でも聞いているようで一向に腑に落ちない。
疑い深い拙僧ですから「阿弥陀仏が絶対に私らを救う!だから有り難い」なんぞと力説されてもゼンゼン響かない。一時は「なんちゅう判りづらいオシエなんじゃー!オイラには禅宗のほうがピッタリくるよ〜ん!」てな具合で半分ソッポを向いていました。

ですから元来禅や瞑想が好きな拙僧はあんまりこの「他力本願」というものに頓着せず、ヒタスラ瞑想三昧の日々を過ごしておりました。
そんな時「ごあいさつ」のページに記したように和尚(Osho)の本に出会い、その講話の中に「エゴ(自我)を離れ、あるがままに自分を受け入れ存在に溶け入りなさい」というような一説があり、「あっ、これが他力と言うことなんじゃなかろうか?」となにか自分の奥底に響くものがあったのを覚えています。



そして、和尚の弟子であるアサンガというスゴイ人に出会い瞑想会の時彼は質疑応答の中で(質問は忘れた)自分が以前ヒーリングを人々に施していたときのことを例にとり、そのとき自分はどのような状態であったかを話してくれました。
「その時自分はエゴを離れ、師である和尚のエネルギーに一切を委ねていた。そうしたらエネルギーが自分を通って人々に降り注ぎ、ヒーリングが起こった。」(百人単位の人たちがそのエネルギーに体を動かされたりしたそうです。ちなみにフレンズ・オブ・アサンガの首謀者ダルマダスはその時実際にそのヒーリングを受け、なんと気絶しちゃったそうであります)の時自分はいなかった。そして何もしなかった。特別な行をしたわけじゃない。只感謝して師の臨在に全てを委ねただけだ。そしたら事は起こった。と、そしてさらに全てに感謝しながら、存在のなすがまま、あるがままに生を受け入れ楽しんで生きればいいんだ。すべては起こっている。と話してくれました。

この沈黙のエネルギーと共に話される言葉を聞きながら拙僧はまさに念仏の極意を聞いたような気がして思わず涙してしまいました。本当に嬉しかったっす。


そして日々瞑想を続けるうちにとてつもなく静寂なスペースに入り、それこそ「我もなく他人もない」「我もなく仏もない」「一切皆空」というような状態を一瞥しました。嗚呼、すべてはひとつなんだ。そうか、すでにここにある自分の命というものは全体とひとつ、すなわち阿弥陀仏とひとつであり、既に自分は仏であり救われている!そのことに気づかないでいただけなんだ。阿弥陀仏の本願の外には住んだことがなかった。嗚呼、自分はいつも阿弥陀仏の他力そのものとひとつであったんだ・・・「なむあみだぶつ」と初めて大いなる感謝に包まれて念仏が腹の奥底から出てきました。(言葉では表現しきれないので非常にモドカシイです)踊り念仏というのが昔からありますが、まさにその歓びのあまり踊ってしまいました。自分のどこかにやはり「他力本願」を理解したいという切なる願いがあったんだと思います。感謝感謝。

その時自分というものは消えていました。ですから「他力に頼る」とか「全てをお任せして」とかいうんではなくて「他力に頼る」自分がいない、「全てをお任せする」自分がいなかったんであります。よーするに全部「他力」(自分がいないんすから)だったんであります。でもこれは果たして「他力」と呼んで良いものやら・・・。だって自分があるから他(ほか)があるわけっすからね。まあそんなリクツをコネても何の意味もないのでやめときましょう。

彼我一体なんて言葉があったかと思いますが禅で言う「これでもなくあれでもない」というような感じだったんでしょう。瞑想は深く入っていくと「自分というものはなく全てはひとつ」ということに気付かせてくれ、念仏門では最初から自力というものを脇に置き、他力そのものである阿弥陀仏に全てを委ね、念仏を喜び感謝していくうちに仏の中へ消えていく(一体となる)というような事なのかもしれないと感じておる次第です。



よーするに禅でも念仏でもヒトそれぞれ肌に合うというか、その人のタイプに向いている方法というのがあるんですよね。

ですから、あの宗教はダメだとかこの宗派はここがマズイとかいうのはとんでもなくナンセンスなことであります。もともとブッダが修め、サトリを開かれた宇宙の法を体得させてもらいたいってんで仏弟子になってるわけなんすからヒトのやってる事をドウノコウノ言うよりは自分の内側の法を渇望する声に耳を傾けた方がよろしいかと存じますが・・・。
よくあるたとえ話ですけど、富士山に登るにもいろんな道があって山梨から登るのと静岡から登るのとでは、道も違うし景色も違う。だけど頂上は一つでそこにたどり着いてみれば目指していた場所はまったく同じということに気がつく。拙僧はけっして登りつめたわけではないですが、なんかそんなような気がしますです。

この大宇宙を微妙なバランスを保ち営々と運行している真理とでも言うべきなにか、その恩恵を被って私ら人間も生存しているわけです。日本人だから空気を吸ってアメリカ人だから吸わないと言うようなワケにはいかないし、仏教徒だから血の色は赤でキリスト教徒だから青だとかいう事も無い。人間はある一つのもの(真理だとか神とか存在とか宇宙の法則とかetc)の恩恵を被り、またそのなにかを知りたくて、ある人は科学を使い、ある人は宗教を用い今日まで求め続けて来たわけだと思うんです。そしてそこに存在している自分とは何か?ここにいる悩んだり喜んだりして日々を送っている自分とは果たして何者なのか・・・?という古来からの普遍ともいうべき疑問を解決すべく我々人間はそれぞれの環境や縁の中でそれぞれに合った「学び方」を選んで来たのでしょう。それがあらゆる宗教の始まりであったはずです。
「縁のある法に学べ」という昔の偉いお坊さんの言葉がありますが正にその言葉通りであるなあとつくづく思うわけであります。

あとそれから、よく伝統宗教は高い教えで、新興宗教は低い。とかいう事をよく聞いたりしますが、古けりゃいいってもんじゃないでしょ!ねー(モチロン新しけりゃ良いってもんでもないけど)。言っている本人は何百年生きているか知りませんが、古いものは放っておけば腐ってくる。血の通っていない哲学とかリクツをコネてばかりの教えが大事なんじゃなくてそれを求める人間がいかに真摯で、法そのものをいかに「生きている」「求めている」かが大事なことであるんじゃないすか。ブッダの教えもも最初は新興宗教だったんですし、当時としては正に革命的な異端ともいえる宗教だったんすから・・・。
モチロン古い伝統にも脈々と流れる「法灯」を見ることはできるし、新しいものの中には、突然の思いもよらない輝きを放つものも出てくる可能性があると信じます。

なんつったって法を智るということはそれを味わう事であって、体験して初めて智ることが出来ることなんすもんね。そうじゃないすか?
ま、宗教は個人的な理解が命ですから、その人の修行、理解(さとり)、または真摯な求道心・・ですよね。
「香り」が違いますよね・・ホンモノは・・っははは。


まあ、ちとエラソウに述べてしまったんでハズカシイんですが、ここに書いたことは拙僧の体験、味わいでありまして、一般に言われている「他力本願」の解釈とは全然違います。でも「それは違う」と言われたところでそれはその人の意見というもんでありまして、拙僧は実際に他力というものを味わい、その得も言われぬ味を歓び、念仏三昧の日々を送っているんですからしょーがないんであります。これはどーしようもない動かしがたい事実なんです。       
                                                                      合掌