「現実の生活とひかり」

「現実」という言葉を聞くと、何か身の回りで起こっているお金の心配とか、この世で生きていて直面している悩みや問題のことを思い起こしがちですが、それらは実は、私たちの心や頭を渦巻いている「思考」の反映・・すなわち「事実」ではない実体のない夢のようなものだと知ったら、驚くかも知れません

即ち”現実を生きている”と思いこんでいる私たちは、実は”夢の中(思考、観念など)を生きている”という事になります。これが釈尊の言っていた「この世はすべてマーヤ(夢)である」という言葉の意味です。
「私たちの本当の姿は仏性そのものであって、それはどんな状況にも左右されない、何ものにも触れられない”永遠なるもの”です。」というような話を法事の時などにしますが、これは正に私たちの生きている現実の「ありのまま」の姿を言っている訳です。
普段は「思考」や「観念」や他人の「評価」や社会の「マインドコントロール」の渦に巻き込まれて現実の自分、本当のありのままの自分を忘れてしまって夢の中を彷徨っているように生きている私たちです。

そのような状態ですので、「本当の自分は仏性そのもの」とか「あなたは永遠不滅のもの」、または「あなたは既に救われている」とか言われても、理屈では何となく頷いてはみても、何やらそれは、もの凄く遠いもののような気がしたり、大変な修行でもしないとその「仏性」とやらには到底たどり着けないのではないかと感じてしまうことが多いようです。

しかし、この「仏性」は言い換えれば「私たちそのもの」であって、私たちは仏性以外のものになど一度たりともなったことは無い・・、そっくりそのまま「仏性」で出来ている。
言葉で「本当の自分」なんていうと「ウソの自分」があるような気もしますが、そんなものは只の一度も実在したことは無いのです。ただ眠りこけて、ヒタスラ夢を見て(過去や未来に生きて)いたという事に他ならない・・というわけです。

そしてこの「ありのままの自分」に目を向け、意識する・・この「意識する」ということは、暗闇に光をもたらすことになります・・。
夢から醒め、今この瞬間にある「生」を生きはじめることになり、心配や後悔を脇に置いて、大いなる安心・・限りなき喜び・・に生きることになってくるわけです。
たとえ、この暗闇がどんなに長く居座っていようと、出口のない地獄のようなものに感じていようと、この意識という光をもたらした瞬間、闇は消えてしまいます。
私の理解ですが、このことを「清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ」と親鸞さんは和讃の中で詩ったのだと思っています。

そうです・・「意識をする」ということは、「光をもたらす」ということ・・
私たちの意識・・実はこの意識そのものが、あみださんの光であるわけです。
私たちは既に救われている・・あみださんが、今まさに「ここ」にいます。
そしてこれがまさしく、私たちの本然・・「ありのまま」の姿・・「ブッダ(ほとけ)」に他ならない・・。

美しい花を見たとき・・美しい夕焼けを見たとき・・・・
思い起こすでしょう・・「本当の自分」を・・
                なんまんだぶつ