っははは〜!

「悪人正機」についての詳しいことはいろんな本が出てるので、そちらを参考にしてもらえればサイワイです。
親鸞聖人の弟子である唯円が書いたと言われている、かの有名な「歎異抄」第三章の「善人なをもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉が発端のようで、この「悪人正機説」ってえのが他力信仰の教義の中で言われ続けてきておるみたいなんす。つまり善人でさえ往生できるのだから、悪人はいうにおよばないという意味なんすが、普通の考え・・いわゆる常識ってえやつで計ってみると正反対のことを言ってるみたいで、初めてこの言葉に接すると「はっ」とする人が少なからずいると思うんす・・。

ま、そんなことはどうでもいいんでありまして、ここではだいじょ〜が体験したこと、理解したことをこの「悪人正機」ってえ言葉に絡めてちと書いてみよかと思ったわけです。ど〜か深刻にならずにおつき合いの程を・・・っははは。

自分の「こころ」や「感情」などいわゆる「自我(エゴ)」を「観て」いると、そのオゾマシサ、救いようのなさ、ど〜しようもない愚かさ、汚さ、貪欲、それが怒りであったり、悲しみであったり、嘆きであったり・・マサに地獄を垣間見るってえ感じなんすね・・。いや〜すごいもんす・・!みればみるほどオソロシイ・・、また次から次へと湧いてくる・・。

この「観る」ということを始める前は、自分の「心」がこんなにも地獄の様相を呈しているとは夢にも思わなかったわけで、心の状態そのものを「ありのまま」に観るということが出来なかったわけです・・。言い換えれば「夢」の中にいたわけでタダ漠然と「自分はそんなに悪い人間ではない」とか「多少至らないけど、まあ、そこそこ」ってなくらいなカンジでいたわけです。
ところがひとたびこの「クリヤーな目」をもって、内側を覗いてみたら・・まんず最初にあったのはこの「地獄」だったってワケでした・・っはは

最初はその地獄に巻き込まれそうになったりしていましたが、ただじっと「観ている」とその「地獄」とそれを「観ているもの」の間にギャップがあることに気づいてきたんす。
有り難いことに最後には自分の本体である「観ている側(意識)」はその「観られている」地獄のような「心」「エゴ」とは別の物、言い換えれば、本当の自分ではないという「事実」が見えちゃったわけでした・・。なんらその「地獄」に同化されない・・本当の自分はなんの影響も受けないで「ただ此処にいる」って解っちゃったわけです・・。
そして勇気を持って(っはは・・?)善いも悪いも判断せず、ず〜っと見続けていると、その「地獄」もこれまた「ただ其処にある」ってえことも解ってきて、それはジツは「地獄」なんてものではなくて、言ってみれば「ただそういう状態にあるもの」なんだと・・エネルギーがただ其処にあって動いている・・そいつに善い悪いという判断を下して、「ジゴク」なんてえ名前を付けて「大変だ〜!」と騒いでいただけなのだと解っちゃったわけでした・・。
ほんでもってそいつを放っておくと、最後にはそれ自体、消えちゃったりして・・。っはははは。

そんでもって消えちゃったのを観ていると、「自分」が消えちゃっているのに気づくんですよ・・。そう・・なにもない・・・っははは〜・・・!いわゆる「自分」ってえものは最初の最初から無かった・・いやいや・・マイッタマイッタ・・っははは〜!!!!!

時々「ありがたい」がやってきたり、「うれしい」がやってきたり、「踊り」がやってきたり、「うた」がやってきたり・・
もうそこには「誰もいない」ってえワケですから、悩む自分もいなければ、地獄のような思いに煩わされることもない・・。

そこでだいじょ〜のマインド(心)がちょっとばかり呟いたってえわけでした・・・!

いっぱいがらくたの集まった地獄のような心は確かに「悪人」だわ・・はい。
でも心が悪人だと認識できるってえことは、即「救われている」からこそだったんだと気づくことが出来た・・
悪人だと認識できる以前は(ありのままを観ることが出来る前)は確かに「夢の中」で酔っぱらっていたわけで、それこそ意識朦朧の状態だった・・それこそ、社会のあらゆる条件付けや常識、マインドコントロール、過去の記憶(いわゆるカルマってえやつですか)にえらく影響を受けて主体性のないまま生きていたワケっすね。

「ただ此処にいる」という「あみださんの光」に触れたとたん、今まで実在すると思っていた多くのことがタダの「夢」だとわかってしまって、夢から醒めてみれば地獄も夢に描いたような極楽もなにもない・・ただ「此処」が極楽だったワケです。
この「心」が悪人だと解るってえことはタイヘンなことなんだな〜と感じたんっす・・ほんでもって・・
悪人こそ救われる・・「悪人正機」・・っはははははは〜!!!

ちょっとムリがあっかな・・?っはは。ま、いいか。っはは。

「清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ・・」親鸞さんのうたですが、いやほんと・・すんばらし〜!
たしかに「一切の業繋(カルマ)がのぞこりぬ」だね〜!!ま、「のぞこりぬ」っていっても最初から勘違いしていただけで、ほんとはそんなもの無かったんすけどね。
でも、あみださんの光にすでに触れているんだと解るまでは、地獄や業繋(カルマ)があると思っていたわけだから「のぞこりぬ」だったワケですけど・・っははは。


ほんでもアリガタイことに善人でも(!)「救われている」・・
そうなんす・・「もうすでに救われている」
気づいていようがいまいが、そんなことは一向にお構いなし・・
あみださんと一体、言い換えればあみださんそのものがこの「生命」・・
地獄にも極楽にも何ものにも触れられない「そのもの」・・それが本当の自分っす・・仏性そのもの・・
存在そのもの・・そう・・あなたがあなた育ててる・・

っははは〜・・なんまんだぶ・・